演歌についてあれやこれや…

イランカラプテー!
(アイヌ語のこんにちは!)
ちょっと冒頭部分シリーズ、「世界のこんにちは」をこれから毎回お送りしていこうと思います。
はい、皆さん今日も音楽聴いてますかー!?
どんな音楽聴いてますでしょうか?
J-POP、ロック…様々かと思います。
ちなみに筆者は今ボサノヴァにはまってます。
さてさて、では日本伝統っぽい音楽、日本の心…といえば?
そう、演歌です。
かくいう私、演歌についてはほとんど知りません。
ただ父親が口ずさんでるをちょろっと聴いて知ってる〜くらいです。
何となく近寄りがたい音楽のようなイメージがありまして…
「演歌」の画像検索結果
でもね、素晴らしい音楽に変わりありません!
じゃあさ、せっかくならちゃんとルーツについて調べて好きになっていこうじゃないか!
〜演歌とは〜
初っ端から間違えてました!
すみません!
先に謝っておきます…
「演歌は日本の心」というのはお馴染みのフレーズですよね。
演歌といえば、いかにも古くから続く伝統のものと思われがちですが、実は40年くらいの歴史しかないとか…
「演歌の起源は演説歌」
ことばとしての「演歌」のルーツは明治時代の社会風刺音楽を意味するものだった。有名な川上音二郎「オッペケペー節」は、曲調もラップのようなもの。演説歌が転じて演歌となったにすぎず、現在の音楽ジャンルである「演歌」とは曲調も内容も全く異なるものである。
「演歌」は、「演説歌」の略語であり、明治時代の自由民権運動の産物であった。藩閥政治への批判を歌に託した政治主張・宣伝の手段である。つまり、政治を風刺する歌(プロテストソング)で、演説に関する取締りが厳しくなった19世紀末に、演説の代わりに歌を歌うようになったのが「演歌」という名称の始まり。
戦前において、大衆音楽界の主流は「流行歌」であった。ジャズ等の洋楽が日本に流入し、そのカバー曲や洋楽的な音楽手法に則った歌手が大衆を魅了するヒットソングとなった。演歌が音楽界に復権したのは戦後のことである。
昭和に入ると、外資系レコード会社が日本に製造会社を作り、電気吹込みという新録音システムも導入され、新しい時代を迎えた。しかし、昭和3年(1928年)の佐藤千夜子や二村定一、昭和6年(1931年)の藤山一郎の登場により「流行歌」と呼ばれる一大分野が大衆音楽の世界をほぼ独占し、しばらく「演歌」は音楽界から退場することとなる。
「演歌」は、1960年代末から72年頃にかけ、若者向きの流行現象として音楽産業によって仕掛けられたといわれる。
昭和38年(1963年)、演歌専門のレコード会社・日本クラウンの独立と、様々な音楽の流入により「流行歌」が消滅。その中で、ヨナ抜き音階や小節を用いたものが「演歌」と呼称されるようになった。社会風刺的要素は全くなく、‘‘名称だけの復活’’であった。
現在の「演歌」を特徴づける「こぶし」や「唸り」の利いた歌い方は、少なくとも昭和20年代までは殆ど見当たらない。
ちなみに、演歌は1970年前後に作られ1980年代半ばに力を失った音楽のカテゴリであり、万葉から続く「日本の心」などとは無関係。
何だか意外や意外!
比較的新しい音楽ジャンルだったのですね〜。
思い込みというか、なんというか…
最近では若い演歌歌手さんも出てますし、手にとって聴いてみるのもいかがでしょうか?
「演歌」の画像検索結果
でも演歌って歌うの難しいですよねー!
「こぶし」っていうんですか、あの感じ。
さぁ、皆さんも演歌をレッツトライ!

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